2009年07月05日

置き土産  【エッセイ・晴写雨綴】

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 行きつけの喫茶店で記事をまとめていると、「どこにあるか場所が分からんかったよ〜!」と、大きな声をあげながら日に焼けた男性が入ってきた。
 怒っているわけではなさそうだが、地声が大きい。ウェイトレスのお姉さんもびっくりしている。さっきから「まさこさ〜ん!」と、うどん屋のまさこさんの名前を連呼する大声が聞こえていたが、きっと、この人だろう。
 高千穂の言葉とはイントネーションが違う。なにより、こんなに勢いよく大声で話す人は、高千穂にはいない。どこからきたのだろう?

 男性のテンションの高さについていけずに、ウェイトレスのお姉さんが、苦笑いしていたので、どこから来たのですかと?と、水を向けた。
 男性の目はギラギラととても野生的だ。彼は、佐賀から有明海の海苔の養殖に使う、使い古したネット(網)を販売に来ていて、今日は天岩戸神社に参拝した後温泉に入り、うどん屋でおばちゃんたちとお喋りしたことを大きな声でひととおり語ってくれた。
 なんだか、彼の人間味あふれる話し方に好奇心がくすぐられる。なにより、知らない土地でも、積極的に最初から自分のペースで喋れるのは、とても羨ましい。
 
  「取材?」。今度は、彼のほうが訊いてきた。テーブルの上にカメラを置き、ノートを広げていたので、そう思ったのだろう。別の取材の記事をまとめていることを伝えると、「東京からきたの?」と、すぐに質問が返ってくる。地元で、写真の仕事をして、文章を書いていることを伝えた。自分が編集長として作った雑誌もみてもらった。
 四冊とも目をとおすと、購入したいと申し出てくれた。「こうやって雑誌として自分の考えを後世に伝えていくことは素晴らしい仕事で、今はお金にならなくても、きっと後からみんな頼ってくるよ」。と、励ましてくれた。

 創刊号の特集が、地球温暖化で最初に沈む国、といわれる“ツバル”の内容だったので、強く魅かれたようだ。彼が佐賀から持ってきた養殖ネットも、彼が漁師仲間から集めて販売するまでは、そこら辺で燃やされていた。「子どもたちに良い環境を残す」。ずっと言われ続けてきたことだが、それとは反対な方向に社会がむかってきたのは、宮崎でも佐賀でも同じことなのだ。
 
 どうして、養殖ネットを高千穂のような山村で販売するのかと訝しがる人もいるかもしれないが、高千穂の抱える大きな問題として獣害がある。高千穂ばかりではなく、多くの山村で同じことがおこっているのではないだろうか?
 鹿や猪が里まで下りてきて、田畑の作物を食べ散らかすのだ。それだけではなく、山の木々の新芽を食べ、角で成木の皮を削って剥いてしまう。里も、山も荒れ、土砂災害がおこる一因にもなっている。猟師の高齢化や人手不足もあり、予防としては、自分の田畑をネットや電気柵で囲み、獣が入れなくするするしか、具体的な策が無い。

 実際に見せてもらうと、長さが十メートル以上ある。目は大きく、ほのかに潮の香りがする。海で使われているものだから、丈夫で、十年ぐらい日に晒していても大丈夫。それが、軽トラの荷台いっぱいに、積まれている。
 彼も海苔を養殖していて、暇な時期にこうして行商をするのだ。雨が降る日は、軽トラの中で眠り、晴れればベンチがあるところで野宿をする。無理をすれば一日で完売させてしまうこともできるが、その街を観光し、人との出会いを目的としているので、三日、四日かけて販売する。
 
 歳は三十八歳。僕と五歳しか変わらないのだが、たくましさには格段の差がある。そんな彼でも悲しいことがある。それは、自分が持ってきたものが何に使うものかを説明する前に、拒絶されることだ。
 「昔の日本は、もっと開けっぴろげだったと思うんだよ、知らない人がきたら、みんな集まってきて、ああでもないこうでもないと大声で話す。今は、最初から人を疑って、内容をみないで、値段だけをみる。そういうときは、売れなくて残念とかじゃなくて、ただ、悲しいよね」。

 これは、使い捨てできる便利なものが、安くで、いつでもいくらでも手に入れることができる社会になったことが原因だと思う。物が少ない昔は、奪われることを心配するよりも、共有しあうことのほうが多かったはずだ。少なくとも、会話を楽しむ余裕があっただろう。
 今はその余裕がない。人をみたら、犯罪者と思え。獣から作物を守るために、田畑をネットで囲むように、自分の心を金と物で囲んで、他者との接点をもたないようにしている。

 「それでも、田舎に行くと心優しい人もたくさんいるので、大丈夫だと安心するんだよ」。彼はそう言うと、今度は、マンゴーを求めて、西都市へ向けて出発した。

 見送りした後、帰りがけに、たまたまうどん屋のまさこさんと出合った。男性とは、知り合いなのかを訊ねてみると、案の定、知り合いではないという。
 「いらんて言ったとに、網を一つおいていったとよ」。言葉とは裏腹に、まさこさんは、満面の笑みだ。どうやら、彼の置き土産は、養殖ネットだけではなさそうだ。
 

投稿者 hujiki : 21:58 | コメント (5)

2009年03月27日

新シリーズ『動物園』編  【朝日新聞】

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朝日新聞(宮崎県版)で、動物園の動物写真を撮ることとなりました。
『ひむか日和』に変わっての新シリーズです。ということで、宮崎市フェニックス動物園にお邪魔しました。小動物や大きくてもゆっくりした動きの動物はいいのですが、類人猿や大型の肉食動物はびびりながらの撮影でした。当日は、休園日だっただけに、油断したら後ろから襲われるような気がして、必要以上に背後に気を配りました。ちょっと、挙動不審ですね。

特にトラ。自然界では出会いたくないですね。目は鋭いし、オーラはでまくりだし、これには敵わないと思いました。熊だったら巴投げで、退治できるかもしれませんが、トラには無理だな〜。でも、僕がくしゃみしたら、びくついたので、案外、小心なのかもしれません。

可愛いのはキリン。キリンも危険な動物なのだそうですが、パチッとした目に長い眉毛、頬ずりしてくるので思わず僕も頬ずりしてしまいます。そんなことしてたら、いつかぶっ飛ばされるかもしれませんけどね。そうしたら、「この人でなし!」じゃなくて、「このキリンでなし!」って言わなければならないのか?悩むところです。

また詳しいことが決まったらおしらせしまーす♪

投稿者 hujiki : 16:15 | コメント (4)

2008年08月14日

エッセイ 『下駄と小指』  【朝日新聞】

お盆です。ご先祖様がおうちに帰っていることでしょう。
連載してきた、朝日新聞のひむか日和も今回で終了。(写真は続きます)
最後のエッセイは、お盆にあわせてというわけではないのですが、僕の祖父のことを書きました。
僕なりの平和のメッセージです。
エッセイも今回で11作品目。上手く書けたかはおいといて、自分と向き合う良い機会となりました。
毎回、飽きもせず読んでくださった読者の皆様に感謝。
そして、こういう機会を与えてくださった朝日新聞の担当者の方に感謝します。
せっかくなので、最後のエッセイをUPしました。
また、どこかで書いていきたいです。

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 『下駄と小指』 

 昭和16年12月24日。祖父はアメリカの軍事戦略上の拠点だったウェーク島上陸後に、腹部に3発の銃弾を受けて戦死した。手術で二つの弾丸は取りのぞくことができたが、一つは腹部に残ったままだった。
 真珠湾攻撃から、わずか2週間ほど後のことである。
 長野で暮らす叔母が今年の春、宮崎に遊びに来たときに教えてくれた。戦死したとは聞いていたが、そんなに早く戦死したとは思ってもいなかった。
 虫のしらせだったのだろう。祖父が戦死した日。祖母は夢をみたそうだ。
 祖父は笑顔で、杯に入った水を祖母に飲ませようとした。飲みたくはなかったが、祖父が後ろに回って無理やり飲ませたという。
 5歳の父の夢にもでてきた。2歳の叔母の夢にだけは出てこなかったので、叔母はたいそう怒ったそうだ。
 叔母は、自分が幼い頃に亡くなった祖父の顔を覚えていない。それなのに、祖父が買ってきてくれた下駄が小さすぎて履けないと怒ったことは覚えている。
 そう言いながら、叔母はおかしいねと笑った。
 一緒に夕食をとったレストランの窓から見える夜の海は、暗くどこまでも広がっている。そのかなたに祖父が戦死した島がある。
 私は叔母の話を聴きながら別のことを思い出していた。
 2年前の春、戦争体験者の取材をしたときのことだ。
 日向の細島に住むおばあさんは、「今日も会えたね。生きとったね」が毎日のあいさつだったということを教えてくれた。
 学校に爆撃があったときには「みんな一緒じゃね、死ぬっとが」と言って防空壕の中でみんなで手を握って泣いたそうだ。
 そう言いながら、おばあさんはほほえんだ。戦争中から今日まで必死に生きてきたことなど、まったく感じさせない穏やかな表情だった。
 叔母は死ぬ前に一度でいいから、ウェーク島に行きたいという。一緒に行こうと誘う。
 ウェーク島は、太平洋のミッドウェーとグアムのほぼ中間にある。三つのサンゴ礁の島からなる小さな島だ。
 こんなところで祖父は死んだのか。
 叔母に一つだけ聞き忘れたことを電話で尋ねた。
 「おじいちゃんが戦死したのは、何歳じゃったと?」
 「32歳。働きざかりじゃったね。桐の箱に収められた白磁の骨つぼで、木綿に包んだ小指だけが帰ってきたわ……」
 32歳。
 同じ年だと聞いて、それまで遠くぼやけていた祖父の姿が、はっきりとした輪郭をおびて私と重なるような気がした。
 祖父は痛みのあまり、死のベッドで脂汗を流しただろう。日本で暮らす妻や幼い子供たちを思い涙があふれただろう。
 顔を洗って、鏡に映る日焼けした自分の顔を見た。
 祖父が死んだウェーク島へ行きたくなった。下駄と小指の思い出しかない叔母の願いをかなえてあげたい。
 叔母にも自分にも、一区切りつくような気がする。
 花をささげ、手を合わせるときに、祖父は何を語りかけてきてくれるのだろう。私は何を感じるのだろうか。


『下駄と小指』 戦死した祖父の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120808090002

『手のひらの皮』 畑を耕す話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120807120001

『100%の幸せ』 幸せについての話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120806070001

『落ち穂拾い』 戦い方の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120805100001

『桃源郷』 リラックスの話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120804190001

『春が来た』 高齢化の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120803220001

『ソウルフード』 郷土食の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120803260004

『明日への種』 挑戦する女性の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120803060001

『よりどころ』 心のあり方の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120712080001

『サトミキサクヤ姫』  町づくりの話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120711050001

『生か、死か』 高千穂線の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120711020002

土曜リレーエッセイ 『ひむか日和』 他の作者がご覧いただけます。写真はテツロー撮影です。
http://mytown.asahi.com/miyazaki/newslist.php?d_id=4600012

投稿者 hujiki : 02:10 | コメント (3)

2008年08月05日

エッセイ書いています。追加  【朝日新聞】

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朝日新聞【ひむか日和】でエッセイを書き始めて今回で10作目。次回をもって執筆を終える予定です。
お陰さまで「楽しみに読ませてもらってます」と声をかけていただけるようになりました。けれども、そのたびに「滅相もない」と恐縮至極このうえなくなります。
仕事上、自分を必要以上に大きく見せることがあります。(身を守るためにえらを大きく膨らますトカゲなどと似たようなものです)そういうのが文章に表われることがあります。自分でもそれを自覚して、もっと自分の気持ちに率直に自分の言葉で書こうとは思うのですがこれが難しい。
基本的に自然に身を任せ、物事を深く考えていない地味なパーソナリティーなのです。早い話、怠け者なのです。
最近はもう少し積極的に生きていかなければと反省しています。
そうしたら、また違ったエッセイが書けるようになると思います。
その時には、こうやって書いてきたエッセイと見比べて自分の成長を楽しめるでしょう。
ああ、そうなっていてほしいな〜。日々の努力が必要なのですね。


『手のひらの皮』 畑を耕す話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120807120001
 「畑を耕したいなあ」と言ったら、「じゃあ、うちの休耕田を使いない」と知人が土地を貸してくれた。
 家庭菜園ほどの狭さだが、むじなが出るというので、防護ネット用の棒を数本立てる作業をした。
 途中で手が痛み出した。軍手をめくると、手のひらの皮は便座のふたのような形にツルリとむけ、血がにじんでいる。
 耳障りな羽音を鳴らしてブヨがまとわりつく。額がかゆいのでかくと、手についていた土が目に入る。痛みとかゆみと歯がゆさで泣きたくなった。
 見かねて知人のお母さんが手伝ってくれた。73歳になるのに、こともなげに棒を立て終えると、ついでにと竹やぶの中から竹の子をとってきた。
 お母さんの働きぶりにほれぼれした。それに比べて自分は何とひ弱なのだろう。
 以前、南の島を旅したとき、山中をさまよったことがあった。照りつける太陽は容赦なく、のどはからからになった。
 ヤシの木には実がなっている。現地の人ならスルスルと登って、のどを潤すところだが、何度挑戦してもできなかった。あげくの果てに、やはり手の皮を擦りむいた。
 自分のひ弱さは、便利な生活のせいでもあるだろう。
 スイッチ一つで明かりがつく。車に乗って歩かない。お金さえあれば体を動かさなくても、食べ物でも洋服でも手に入る。楽に手に入るからつい食べ過ぎる。太るのは当然で筋力がつくわけがない。
 精神的にも自分は不健康だなあ、と感じたことがある。
 福岡で一人暮らしをしていた頃、部屋の中にあるのは既製品ばかりなのが怖かった。どこで誰が作ったものなのか、原料は何なのか。食べ物さえ素性が分からない。そのうちに自分までもが素性のわからない「物」のように思えてきた。
 南の島の人たちや知人のお母さんには、自分にはないたくましさを感じる。暮らしの中で体が覚えたものが生きている。
 テレビで以前、諸塚村の道路が台風で崩れ、孤立したことを伝えていた。電気や水道なども寸断されたが、数日後にはおじいさんたちが山から水を引いて飲料水を確保したという。やはり、たくましいと思った。
 ところがである。山のどこに水があり、どうやれば水を引けるのか。そんな知識も技術も若者にはほとんど伝わっていない。それで大丈夫なのだろうか。
 原油高だ、食糧不足だと、先行きが心配になるニュースばかりが流れている。年配の方の経験と知恵が貴重に思えてくる。
 ガスや灯油がなくても、薪を燃料にかまどで料理をし、お風呂を沸かしてきた。輸入食品がなくても、田畑を耕し山菜や川魚をとって生きてきたのだ。
 そういうことを妻に話すと「やばい時代が来るのを知っちょっても、何もしないんだったら知らないのと一緒じゃん」と馬鹿にされる。
 「お前も鍛えちょかにゃいかんとぞ」と言うと、「そん時になったら鍛えるわ」とはなから相手にされない。その時になってからでは遅いだろうに……。
 だから私は畑を耕す。まだまだ初心者だが、秋にはとうもろこしが実るだろう。
 少なくとも、擦りむけた手のひらの皮が厚くなった分だけ、たくましくなったと思う。


『100%の幸せ』 幸せについての話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120806070001

『落ち穂拾い』 戦い方の話
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『桃源郷』 リラックスの話
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『春が来た』 高齢化の話
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『ソウルフード』 郷土食の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120803260004

『明日への種』 挑戦する女性の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120803060001

『よりどころ』 心のあり方の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120712080001

『サトミキサクヤ姫』  町づくりの話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120711050001

『生か、死か』 高千穂線の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120711020002

土曜リレーエッセイ 『ひむか日和』 他の作者がご覧いただけます。写真はテツロー撮影です。
http://mytown.asahi.com/miyazaki/newslist.php?d_id=4600012

投稿者 hujiki : 11:35 | コメント (9)

2008年06月10日

エッセイ書いています。追加  【朝日新聞】

朝日新聞でエッセイをかかせてもらい始めて、はや半年が過ぎました。エッセイなど書いたこともあまり読んだこともなかったので大変苦労しています。でも、とても勉強になります。エピソードの羅列ではいけない。新聞なので今の時代も取り入れなければならない。自分の言葉ではない大それたことは書けない。身の丈にあったことなんだけど読者が興味を持つ話でなければいけない。自分の視点で書かなければならない。などなど…。

書いていて思うのは、『自分の視点』ってなんじゃい!ってことです。正論は言えてもそれってみんなが言っていること。あらためて僕が書くことでもないんです。でも、それを抜いてしまうと何も書くことがなくなっちゃう。エッセイストだったら読ませる文章のテクニックがあるだろうし、専門的な分野を持っている人だったらそれを通してかけるだろうけど、まだ形を持っていない僕は一苦労。人生勉強もまだまだ足りないな〜と思います。

そんな僕が書いたエッセイですが、お時間があるときにでも読んでください。テツロー君頑張ってるな〜と思っていただけたら幸いです。


『100%の幸せ』 幸せについての話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120806070001
22歳の頃、幸せ探しの旅にでた。たどり着いたのは南太平洋の島国、バヌアツ共和国タンナ島。電気もガスも水道もない暮らしを2カ月間経験した。
 村人は草と木でできた家で暮らす。タロイモやココナツ、フルーツ。魚や貝もとれるから、食うに困ることはない。
 この島について3日ほどで、幸せ探しの旅はもう続けなくてもいいと思った。
 海や夕日の美しさ。その中で暮らす穏やかな村人。島には確かな幸せがあると感じた。
 どうしてこんなに優しい目をしているのだろう。村人の写真を撮っていていつも思った。何の疑いもなく真っすぐに見つめてくる。心の不純物が取り除かれるような気がしたものだ。
 ある日、一緒に遊んでいた少年が家の隣に並ぶ小さな墓を指さして、こどもたちのお墓だよと教えてくれた。医療施設は貧弱だから、こどもの死亡率も高いのだろう。なのに、少年の表情には陰りもみえない。
 死は悲しいけれど、それもまた自然なこと。少年の笑顔は、そう告げているようだった。
 ある集まりで、植物の根からつくる飲み物を飲んで酩酊気味になった男性が言った。
 「この島ではお金が要らない。ヨーロッパ人はこの島のことを天国だというよ」
 別の男性が質問する。
 「日本やアメリカにはたくさんの浮浪者がいるんだろ。月に行くお金があるのに、どうして助けてやらないんだ?」
 村のなかの問題は、長老の意見を聞きながら話し合いで解決する。困っている人を助けようとしない先進国のことが不思議なのだろう。
 私はあれこれ理由を考えるが、どれも言い訳のようになってしまう。自分にはどうすることもできないこと。でも、確かに悲しいことだ。
 この島では、日曜日になるとみんなで賛美歌を歌う。決してうまくはないが、潮騒の中で聞くと、とても心地いい。
 ともに畑を開き、食べ物を分かち合う。先祖が植えたココナツを大事にし、老人を尊ぶ。子どもたちの成長を喜ぶ。
 とどのつまり、この島の幸せは喜びを分かち合うこと。人間の根本的な幸せだと思った。
 あの旅から10年たった。飲み座の席で最近、高千穂の古老から話を聞き、タンナ島の幸せが高千穂にもあったのだと今更ながらに気づいた。
 高千穂では死後、7日おきに親類や村の人が遺族の家に集まりお弔いをする。7回目の四十九日まで続くそうだ。
 「死んでも寂しくねぇわの」。古老の言葉には実感がこもっている。喜びも悲しみも皆で分かち合うのだ。
 隣にいた若い女性が「忙しくて迷惑に思っちょった。そんげな意味があったっちゃ」と反省していた。
 誕生のときも同じだ。田植えも稲刈りもかやぶき屋根の張り替えも、実は喜びごとを分かち合っていた。
 つき合いが減っても村は共同体として存在している。
 隣のばあちゃんが退院してきて鶏小屋の前のいすに座っちょる。上のばあちゃんはたばこ畑で下葉をちぎっちょる。あそこん山では堅治ん方の嫁さんが草を刈りよる。
 みな、互いに気を配って生きている。幸せは1人では味わえない。分かち合って初めて100%の幸せになるのだから。


『落ち穂拾い』 戦い方の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120805100001
「宮崎は好きじゃない。誰も本気で闘ってねぇもん」
 そう言うAさんの声は怒気を含んでいる。
 横浜から延岡へ移り住んで8年。Aさんは県北を中心とする、宮崎の情報発信サイトを作り上げた。
 彼は、取材した街が疲弊していくのを知っている。取材した店がつぶれ、乱開発で自然が壊れ、人がいなくなる。
 宮崎が好きだと言う人は多いけれど、体を張って必死にどうにかしようとする人は少ない。てげてげ。よだきい。他人の批判は出来ても自分で動くことをしない。
 私は彼の言っていることに反論できない。
 何より、私自身が闘っていない。よだきんぼで朝も夜も苦手だ。テレビをつければ、ぼーっといつまでも見てしまう。気がつくと、うたた寝をしている。集中力もなく誘惑にも弱い。
 テレビで、「よだきい」という言葉が取り上げられていた。
 「めんどくさい」といった意味だが、神話にでてくる「よだきいの木」に由来しているという。女性キャスターが持つパネルには老木が描かれ、根っこがあさ根(朝寝)と、ひる根(ひる寝)でできていて、枝には借金鳥(借金取り)が止まっている。
 とても侮辱的だと思うが、知人に話しても誰も怒らない。笑って認めてしまう。
 なぜ、よだきい県民性なのかを力説する人もいる。「昔から台風銀座と呼ばれちょる宮崎では、作物を一生懸命作っても台風で駄目になるき、やる気がねぇなってよだきくなったっちゃが」
 私も自虐的に笑ってしまう。けれども……、けれどもである。
 最近、付き合いで居酒屋に行くことが多いのだが、町のことについてみんな熱く語っている。
 過疎化に少子化、それに不景気。どうにかしなければと考えている。
 私自身も金銭的には苦しい状況で、なりふりかまわず仕事をして、写真をお金に換えることも可能だ。
 東京を目指して競争社会に正面から飛び込むのもありだと思う。
 でも、社会に消費されるだけのようで気が進まない。
 最近二つのことを始めた。畑と薪集めである。
 自分と家族が食べる分の何割かは自分で作りたい。
 冬には自分が集めた薪で暖をとりたい。
 薪を集めだすと、薪に適した樫(かし)やクヌギ、桜が目につくようになる。
 町を歩いていても、「あ、あの木、欲しいなー」と目が奪われる。
 自分が薪(木)に囲まれて暮らしているのに気づく。
 知人に薪の話をすると、枝打ちした桜の木があると提供してくれる。木をのこぎりで切るのも新鮮で面白い。
 おのはまだ使っていないが、アルプスの少女ハイジに出てくるおじいさんのように「ばしっ」と割りたい。消費するばかりでは何なので植樹もしていきたい。
 これで食べて行けるわけではないが、歴史的には何万年も前から続いてきた暮らしでもある。
 そういえば浅ケ部地区に住むじいさんは、稲の落ち穂拾いで2俵集めるそうだ。うーん、食べるに十分。それなら自給自足もありかもしれない。
 ここには、ここの戦い方があるというわけだ。


『桃源郷』 リラックスの話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120804190001
 占星術によると、うお座は早起きが苦手らしい。
 確かに、うお座の僕は子どもの頃から朝は苦手だった。毎朝、ごはんもほどほどに遅刻ぎりぎりで学校に走ったものだ。
 今でも寝たままで暮らしていけたらなあ、と思うほどだ。
 先日テレビを見ていたら、子どもたちのアンケートで、時間があったらしたいことの一番は「睡眠」だった。
 学校の他にも塾や習い事が忙しいからだそうだ。
 うお座に限らず、子どもには睡眠が必要だ。「寝る子は育つ」という。体だけでなく心の話でもある。眠りたいというのは心のSOSに違いない。
 山仕事を教えてくれる知人の娘さんにも同じ質問をしてみた。中学を卒業したばかりの彼女は、突然の質問に「えーっ」と天井を見て思いあぐね、「沖縄!旅行がしたい!」。
 テレビのアンケートの話をすると、土間で山菜の下ごしらえをしていたお母さんが、「萌は、寝てばっかりおるもんねー」と茶々をいれた。
 家族から時には山猿と呼ばれ、姉とけんかばっかりしている萌ちゃん。なるほど! 寝てばかりいるから健全なんだ。
 社会の中で子どもは子どもなりにさまざまなフラストレーションを抱えている。友だちや家庭の人間関係、勉強、将来のこと。そんな現実から心を守ってくれるのも睡眠である。
 僕も写真や文章の仕事に行き詰まったり、ささいな意見のすれ違いで何もかも嫌になったりする時がある。そういうときは、とりあえず眠る。朝起きれば、何とかなるんじゃないかと開き直れることもある。
 子どもの頃は、夢を見るのが楽しみだった。学校で友だちに、見た夢の話をよくした。友だちは熱心に聴いてくれるが、最後にはいつも「意味がわからん」と大笑いする。他の子も興奮したように夢の話をしだす。そして、結局は「意味がわからん」とみんなで大笑いする。
 夢だから記憶もあいまいだし、そもそも辻褄があっていないのだから無理もない。
 けれども、誰かにその面白さを分かってもらいたくてわくわくしながら話した。今の子どもたちには、そんな楽しみはないのかもしれない。
 ゴールデンウイークに何をしたいかという調査があると、「睡眠」「何もしない」と答える大人が多い。
 働き過ぎ。日本には勤労は美徳だという考え方もある。けれども、実際には「働かざるもの食うべからず」ならぬ、「働かざるもの生きるべからず」という社会なのだと思う。
 心を亡くすと書いて「忙しい」。社会全体が疲れているような気がする。
 「本県自殺率ワースト2」。朝刊の見出しに思わず目がとまった。昨年1月から10月までの統計では、自殺率が秋田に次いで2番目に高いのだという。
 温暖で暮らしやすく、人柄のいい人が多いとされる宮崎。都会の人が癒やしを求めてこの地を訪れるが、宮崎の人も疲れているのだ。
 宮崎には「てげてげ」という言葉もある。肩の力を抜いて気楽にいこう。「よだきぃ」とたまには、弱音を吐こう。
 季節は春。色とりどりの花が咲き誇っている。青空の下、優しい風に抱かれて眠りにつこう。ほら、桃源郷が広がっていく。


『春が来た』 高齢化の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120803220001
朝起きて新聞を読んでいると、部屋の小さなスピーカーから、葬儀のお知らせが流れてきた。高千穂町の無線放送だ。亡くなった人の名前、地区、葬儀の日程や喪主名を町役場のエミちゃんが読み上げている。
 春を迎える2月中旬から3月にかけては葬儀が多い。厳しい寒さを乗り越えて、ほっとして気が抜けるお年寄りが多いのだろう。この小さな町で、ほぼ毎日のように人は死んでいく。
 高齢化の一つの側面だ。しかし、高齢化自体は、高千穂ではそれほど大きな問題ではないように思う。
 お年寄りは腰が曲がっていようが、足を引きずっていようが草を刈らせれば若者より立派に刈る。祭りの段取りも間違いない。夜神楽などに使われるしめ縄なども、じいちゃんたちがいないと準備が滞る。料理となれば、ばあちゃんたちの出番だ。それぞれが体に染み込んだ知恵を持っている。
 問題は少子化だ。町内の人口は年々減少、12年後には30%減るという予測もある。
 先日、家業が寺で幼稚園も経営している学生時代の先輩と話をする機会があった。町内には1歳未満の子どもは70人ほどしかいないそうだ。それを八つの幼稚園、保育園が奪い合う。このままではどこも経営が成り立たなくなると嘆いていた。
 今年、小学校と中学校が1校ずつ閉校した。高千穂鉄道の不通や校区の自由化などで、近隣の町から高校に進学してくる子どもたちの数は例年より40人も減るそうだ。そして、高校を卒業した若者たちは、就職や進学のために町を離れていく。
 私は町中心部の消防団に所属しているが、定員14人のところ10人しかいない。山間部になればもっと人繰りは厳しい。50歳近くになってもホースを担いで走らざるを得ない。集落ごとに行っている祭りや水の管理、用水路の清掃などができなくなりそうな所もある。
 さあ、大変だ。このままでは町の未来は無い。そう思ってもしかたがないのだが、そう思わないのが、独立独歩の精神で生き抜いてきた高千穂の山の民である。
 天岩戸伝説が残る天岩戸神社のそばの五ケ村地区には神楽の館という農家民宿がある。わらぶき屋根の立派なものだ。地域おこしグループのメンバーがお金を出しあって日之影町の大人地区から移築した。毎年夜神楽が奉納され、都市との交流やグリーンツーリズムも盛んである。
 会のメンバーの佐藤光さん(56)は言う。「なんもせんければ終わってしまうが……。五ケ村の老人会は、80歳以下は青年部といってみんな頑張りよるばい」。神楽の館の移築にかかった借金返済のめどはつき、今度は1千万円かけて石倉を移築し、カフェを開くそうだ。資金繰りはみんなで知恵を出し合っている最中だ。座して死を待つより、生きるために行動するということだろう。
 そういえば去年のことだが、土呂久地区惣見という16戸の集落で待望の赤ちゃんが生まれた。谷の斜面に30戸はあった集落はだんだん小さくなり、全戸で子どもは5人ほどになってしまっていた。だから、赤ちゃん誕生は大きなニュースだった。
 いま春の日差しの中を、ひいばあちゃんにおんぶされて散歩し、赤ちゃんはキャッキャと笑い声を響かせる。
 その笑顔を見ていると、少子化だろうが高齢化だろうが何とかなると思えてくるから不思議だ。


ソウルフード
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120803260004
 幼稚園に通っていたころは、毎日のように朝夕とも黄な粉かけご飯を食べていた。私はこれで大きくなったようなものだった。
 母などは、私が進学して大阪で暮らすようになっても、黄な粉をよく食べていた小さい頃の私を思い出すためか、小包には必ず黄な粉を入れて送ってよこしたものだった。
 小さい頃から慣れ親しみ、自分自身と切り離せない食べ物。郷土料理だけでなく、私にとっての黄な粉かけご飯のようなものも含めてソウルフード(魂の食べ物)というそうだ。
 先日、高千穂で開かれた「小昼の会〜師走編」という催しをのぞいてみた。小昼は「こびる」と読む。田畑や山仕事のときなどに食べる、家庭で作った軽食やおやつのことである。もちろん、子どもたちも一緒に食べることもあったという。
 テーブルの上には地元のおばちゃん、おばあちゃんたちが持ち寄った小昼メニューがずらりと並べられている。その品40種類以上。
 高千穂では定番のだご(だんご)、黒糖パン、赤飯。あられや棒ドーナツなどの揚げ物類。煮しめや栗の渋皮煮。
 そして、小麦粉を練ってゆでたものに黄な粉をまぶした「ねったくり」。久しぶりの黄な粉は、やはり小さい頃を思い出させる。他のものも、自分が生まれ、暮らしている高千穂の味で、ソウルフードと言っても決して大げさとは思えなかった。
 会は、町の若者が小昼文化の掘り起こしと、新しい小昼メニューを開発しようと開いた。高千穂の「食の文化」が日常の食事だけではなく、観光客に出す食事にも反映されていないのが残念だからというのだ。
 それにしても、集まってきた女衆(おなごし)の生き生きとした表情はどうだろう。自分の料理と他人のを見比べ、食べ比べに余念がない。好奇心、探究心で目が爛々としている。若者たちも品数の多さや味に興奮している。遠く異国のフォアグラやキャビアを夢見るのではなく、足もとにあるものを見つめることができたのはいいことだった。
 高千穂には小昼だけでなく本格的な郷土料理もたくさんある。竹筒に鶏と季節の野菜を詰めてしょうゆ、塩コショウで味付けして蒸し焼きにする「かっぽ鶏」。竹の風味も相まっておいしい。その後に、米と酒でかっぽ飯にするのもおつである。鹿の刺し身やイノシシ鍋、地鶏うどんに、里芋やシイタケなど山の幸をふんだんに使った煮しめ。珍しいところでは蜂の子(幼虫)とナスのみそいため。
 旅館でも観光客に誇りを持って提供できるものだ。ところが、あたり前すぎると考え、ごちそうとして出すことができないようなのだ。
 ある旅館は、漁師の団体客に良かれと思って刺し身を夕食に出し、「腐っているんじゃないのか」と言われたそうだ。新鮮な魚に慣れている漁師にすれば、山奥で刺し身を出されてもうれしくはなかったろう。
 自分たちの食文化に誇りを持つ。そこから出発してもいいのではないだろうか。若者たちが今の時代にあった小昼メニューを作るというのなら、それもいい。旅館や飲食店と協力して販売すれば観光客も喜ぶだろう。雇用も増えて町も潤うかもしれない。豊かな食文化を後世に伝えていくことになるのかもしれない。
 高千穂にはまだまだ、さまざまな料理がある。だごの一つでも持って、ソウルフードを探しにぶらりと歩いてみたくなった。


『明日への種』 挑戦する女性の話
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『よりどころ』 心のあり方の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120712080001

『サトミキサクヤ姫』  町づくりの話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120711050001

『生か、死か』 高千穂線の話
http://mytown.asahi.com/miyazaki/news.php?k_id=46000120711020002

土曜リレーエッセイ 『ひむか日和』 他の作者がご覧いただけます。写真は僕です。
http://mytown.asahi.com/miyazaki/newslist.php?d_id=4600012

投稿者 hujiki : 11:06 | コメント (5)


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