作曲家・ピアニスト『西村由紀江』


投稿:2009.12.27
【東京エリア】 【インタビュー】 【音楽】 【エンタメ】 【アーティスト・著名人】

私と私の音楽が、元気や勇気をみなさんにお届けします!

作曲家・ピアニスト 西村由紀江作曲家・ピアニスト 西村由紀江

 三歳からピアノをはじめ、小・中学生時には音楽の才能を認められ海外演奏旅行に参加。幼少期より独自のスタイルで音楽と向き合うことで育まれた類い稀なセンスと高い作曲能力を買われ、桐朋学園大学ピアノ科入学と同時にアルバムデビュー。
 現在までに30枚を超えるアルバムをリリースする傍ら、テレビドラマ『101回目のプロポーズ』(フジテレビ)をはじめ、映画やCMなど様々なジャンルにおいてそのプロデュース能力を発揮している。
 また年間60本を超えるライブ活動の中には、ヴァイオリニスト葉加瀬太郎氏プロデュースによる夏の音楽イベント『情熱大陸スペシャルライブ』への参加から、『学校コンサート』『病院コンサート』といったライフワーク的なものまで様々。
 人あたりのいい穏やかな人柄に幅広い活動、そしてテレビ番組でのピアノ講師の経験を活かした個性的なステージは、音楽の魅力を余すことなく伝えられるとして、年齢や性別を問わず多くのファンを魅了している。

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲活動の一つ「病院コンサート」の風景

 どんなに忙しく苦しい時でも、ピアノの前に座ればいつも優しい笑顔で、美しいメロディを聴かせてくれる西村由紀江さんだが、子どものころから極度の対人恐怖症により、なかなか友達をつくることができず、デビューしてからもいろいろと失敗を繰り返したという。そこで今回のインタビューでは、「ピアノだけが友達だった」というデビュー以前を振り返ってもらいつつ、コンポーザー、音楽プロデューサーといった視点からみる独自の音楽観や、最新アルバム『ビタミン』について、様々なエピソードを交え、たっぷりと語ってもらった。
(取材・文:松田秀人 協力:Kinu~美のカリスマ~)

西村由紀江

URL:http://www.nishimura-yukie.com/

 

西村由紀江 プロフィール

(大阪府出身、作曲家・ピアニスト、株式会社モデラート所属)
※プロフィール内容は公式ホームページより

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

 幼少より音楽の才能を認められ、ヨーロッパ、アメリカ、東南アジア諸国への演奏旅行に参加し、絶賛を博す。

 桐朋学園大学ピアノ科に入学と同時にデビュー。

 年間60本を超えるコンサートで、全国各地を訪れる傍ら、ライフワークとして「学校コンサート」や「病院コンサート」も行っている。
 
今までに30枚を超えるアルバムをリリースする制作活動の他、近年ではNHKテレビ「趣味悠々・西村由紀江のやさしいピアノレッスン」にピアノ講師として 出演し、ピアノの楽しさ、音楽の魅力を、わかりやすく広めたことでも注目を集めた。彼女のふんわりしながらも凛とした人柄、またそこから紡ぎ出されるピア ノの音色は、同世代の女性からの支持も高い。

 エッセイ「あなたが輝くとき」の出版(同タイトルのCDも発売)、ドラマスペシャル「吉原炎上」の音楽担当、また、NHK「アーカイブス」のテーマ曲を手がけるなど、ますます意欲的に活動中である。

 06年に自身の個人事務所「株式会社 モデラート」を設立、現在モデラートの所属アーチストとして活動。
代表作は、ドラマ「101回目のプロポーズ」、映画「子ぎつねヘレン」、NHK「アーカイブス」など。

DISCOGRAPHY

New Album「ビタミン」については、所属レコード会社、
ハッツ・アンリミテッドにお問い合せ下さい。

それ以前のリリースについては、
ヤマハミュージックコミュニケーションズにお問い合わせ下さい。

西村由紀江のアルバムCDリストのページはこちらをご覧ください。

SCORE

ヤマハミュージックメディアにお問い合わせ下さい。
西村由紀江の楽譜リストのページはこちらをご覧ください。

Regular

「西村由紀江の名曲カレンダー」(月刊ピアノ 月1回連載)

「Daiwa House SECRET NOTES」(J-WAVE 毎週・月~木放送)

代表作品

☆映画/音楽担当

■「子ぎつねヘレン」(松竹)2006

■「Mayu −ココロの星−」2007

☆テレビドラマ・番組テーマ/音楽担当

■「101回目のプロポーズ」(フジテレビ)1991

■「親愛なる者へ」(フジテレビ)1992

■「君が思い出になる前に」(フジテレビ)2004

■「吉原炎上」(テレビ朝日系スペシャルドラマ)2007

■「肉体の門」(テレビ朝日系スペシャルドラマ)2008

■「NHKアーカイブス」2008~

☆テレビ出演
■ NHK「趣味悠々 西村由紀江のやさしいピアノレッスン」2006.6~9

■「新日曜美術館」(NHK)1997.4~1998.3

■「西村由紀江の日曜はピアノ気分」(よみうりテレビ)1998.4~1997.3

■「情熱大陸~雪の中のピアニスト~」2000.1.130

☆ラジオ出演

■Music Cafe いいおとな~西村由紀江のふんわりタイム~(ラジオ大阪)2006.4~2007.3


■「Daiwa House SECRET NOTES」(J-WAVE 毎週・月~木放送)2009.10~

☆新聞・雑誌
■月刊ピアノ・コラム「西村由紀江の名画音楽館」

■北海道新聞・コラム「音のかたち」2005.8~2008.7

☆出版
■エッセイ「あなたが輝くとき」(成美堂出版)2007.9

☆CM
■三井農林 (日東紅茶/出演)

■阪神百貨店(出演)

■日本通運(出演)

■関西電力(出演)

■サッポロビール(出演)

■SPC(韓国にて放送/音楽)

■maxim(韓国にて放送/音楽)

■全労済(音楽担当)2008

■コニシセイコー「b:mist」(出演/音楽担当)2009

☆西村由紀江公式ホームページ↓
URL:http://www.nishimura-yukie.com/

 

西村由紀江さん〜インタビュー

「ピアニストになるのは無理」と言われた対人恐怖症の女の子が海外演奏旅行で大歓声をあびることに。

 

Q:3歳からピアノを始められたそうですが、そのきっかけを教えてください。

「近所のお友達が通っていた音楽教室に『一緒にいかない?』って誘われたのがきっかけです。確か当時はお稽古事ブームだったこともあり、みんな小さな頃から習字やそろばん塾、ピアノなどを習っていたんです。ただ私は昔から手がとても小さくて、ほかの子ども達がスムーズに弾けるフレーズがうまく弾けなかったりして、いつも怒られていた記憶があります」

Q:そういえば西村さんの手は小さいですね。やはりピアニストにとって手の大きさは重要な要素ですよね?

「そうなんですよ。ごらんの通り今でもとても小さいですけれど……。そのために早くから『ピアニストになるのは無理だね』と先生に言われていたんです。もちろん先生は私が傷つかないよう、何気なく遠回しに言ったのでしょうが、私にはストレートに聞こえたんです。もちろん子どもの私の胸にはグサッと刺さりましたね」

Q:それでは子どものころから「手が小さい」ということをかなり意識していたのですね。

「他の子ども達と比べて技術的に劣っているのは自分でもわかるので、子どもながらに演奏力を追求しても物理的に無理だということを自然に感じ取ったのか、その分、感覚的な部分に磨きをかけることを意識し『音』と接していたように思います。特に幼少期はコンプレックスの塊のような子どもで、ショパンやリストの曲などは友達のほうがずっと巧く弾けていたし、『みんなと比べても元々才能がないのだから……』と自分に言い聞かせつつも、やはり心の奥では悔しい思いをしていました。だからこそ、なにかみんなとはスタイルが異なる、自分だけの得意技をみつけようと摸索していたのかもしれません」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

 

Q:感覚的な部分を磨く作業とは具体的にどのようなことですか。

「とは言っても子どもの考えることなので、決して大げさな取り組みではなく、例えば自宅の目覚まし時計の音は何の音に近いのかをイメージしたり、それをピアノの鍵盤に置換え、お気に入りの音を作り出したりといったように、ピアノを弾くというよりは、ピアノを使って『音遊び』をするのが好きでした」

Q:普通、ピアノのレッスンといえば譜面をみながら行いますが、小さなころから楽曲を耳で聴いてコピーしていたのですね。

「俗にいう『耳コピー』はかなりやっていましたよ。例えば私が小学校の低学年のころよく見ていたアニメーションに『まんが日本昔ばなし』(毎日放送)というのがあって、毎週放映を楽しみにしていたのですが、ずっと見ているうちに、場面ごとに使用される音響効果のパターンがわかってきたのです。お爺さんが登場する時の音、猫が出てくる時の音、悪企みをしている時の音、様々な音を耳コピーして、ピアノで弾いて楽しんでいました。あまりにハマってしまい、ある時などは『まんが日本昔ばなし』で使われる楽曲の全てを頭の中で思い出し、授業中にこっそり譜面にしたりもしました(笑)」

Q:そうした耳コピーの作業は後に役立ったと思いますか?

「もちろんとても役立っています。それはプレイヤーというよりは、コンポーザー(作曲家)、音楽プロデューサーとしての、センスや構成能力、想像力を磨くのに適していたと思います。そのうちコピーして楽しむだけでなく、自分でも何かの物語に音をつけてみたいと思いはじめ、図書館でいろんな物語を借りてきてはページや場面ごとに音を入れて行く作業をしていました。そんな事を繰り返しているうちに、有名作曲家が手がけた楽曲を誰よりもうまく弾くという行為よりも、自分で音を作り出すことに深くはまりこんでいくことになります」

Q:そういえば西村さんは、数年前に昔話に音楽をつけたりしていましたよね?確かCD付きで本になっていたような……。

「そうです。2005年に『CDできく”よみきかせおはなし絵本2″むかしばなし・名作20』(成美堂出版)という作品(下)を手がけました。私は音楽だけでなく、朗読も担当させていただいたんですよ。とても楽しいお仕事でした。ちなみにこの絵本は、子どもさんたちにもとても人気があり、増刷が繰り返されているので、興味のある方はぜひ一度ご覧になってくださいね」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲『CDできく”よみきかせおはなし絵本2″むかしばなし・名作20』で音楽と朗読を担当

 

Q:お話を聞いていると、習い事をしているというよりは、まさにピアノが友達といった感じですね。

「そのものズバリ『ピアノだけが友達でした』(笑)。だから才能が無いと言われてもピアノをやめたいとは思いませんでした。実は『ピアノだけが』と強調するにはそれなりの訳があるんです。私は昔、人見知りがひどく、かなりの対人恐怖症だったんです。もちろん今では世間の荒波にもまれて少しは解消されましたが(笑)、幼稚園の頃から人前に立つとガチガチになって顔が赤くなり、何も話せなかったんです。だから上手に友達をつくることが出来ず、いつも寂しい思いをしていました。そんな時にピアノに向かい音を出してみると、ピアノの音色が悲しげに聞こえたんです。『あっ、ピアノは私の気持ちをわかってくれている』という気持ちがさらに感覚的な部分を刺激し、私の中の『音遊び』は精神安定剤としてどんどん重要性を増していったんです」

Q:ではかなり小さな頃からオリジナル曲を作られていたわけですか。

「オリジナル曲を作曲しているという意識はありませんでしたが、みなさんが日記をつけるように、毎日心に浮かんだメロディをピアノで弾いていたので、譜面に向かうよりはイメージを音に変換するほうが得意だったし楽しかったです。そんなことを続けていたおかげで、デビュー後はオリジナルのストック曲が無数にありとても助かりました(笑)。ただ気のままにつくった楽曲はマイナーで暗いものばかりでしたね」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲8歳の時に書いたオリジナル曲『おとぎのくに』の譜面の一部(5・6ページ部分)

 

Q:しかし小・中学生のころに、ヤマハ・ジュニア・オリジナル・コンサート(JOC)に参加し、海外での演奏旅行を経験していますよね。まったく知らない土地での演奏は大丈夫だったのですか。

「大丈夫ではなかったです。初めての演奏旅行では熱がでましたから(苦笑)。タイ、バンコク、台湾に行ったのが小学校2年生の時で、その後チェコやハンガリーといったヨーロッパ方面や、アメリカなどにも行きました。対人恐怖症の私としては、毎回ドキドキでやっとの思いでしたよ。だから当時の写真(下画像参照)を見てもらうとわかるのですが、私だけロボットのようにガチガチになっているでしょう?(笑)。ただひとだび鍵盤の前に座り演奏に入れば不思議とリラックスできて、どれだけ観客がいてもその世界に入り込むことができたんです」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲ヤマハ・ジュニア・オリジナル・コンサート(JOC)海外公演風景(タイ・右端が西村さん)

 

Q:海外演奏旅行では、どのような活動をされていたのですか。また、最も印象に残っている海外演奏旅行はいつですか。

「自分の作った曲を演奏したり、訪れた国の子供たちとセッションしたりするんです。。時には国王の前や世界的大ホールで演奏したりすることもありました。印象に残っているのは、やはり小学校2年生の時のバンコクでの初演奏ですね。とにかく演奏どころか、自分が日本を離れて海外行くということ自体がよく理解できていなかったし、怖くてしょうがなかったのをはっきりと記憶しています。さらに私だけでなくまわりの大人たちも緊張しているのが伝わってくるし……。私が最年少だったことから、現地の取材も私にスポットが当たることが多く、目の前でフラッシュをたかれたり、現地の女の人にいきなりキスされたり……。ガチガチのフラフラで、じんましんは出るは熱が出るはで大変だったんです。ただピアノの演奏をしている時だけは、どれほど人がいようが落ち着いていることができたし、逆にその時だけは自分らしくいられたんです」

Q:海外演奏旅行に参加してよかったと思ったことは?

「演奏後の大歓声を受けた時『音楽はどこの国の人にも同じように感動を与えることができるんだ』という喜びをはっきりと体感できたことです。だから今でも初めての土地や、初めてお会いする人達の中で演奏をする時は、海外演奏旅行で感じた感動を思い出して『大丈夫、きっと伝わる』って思うようにしています」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲ヤマハ・ジュニア・オリジナル・コンサート(JOC)海外公演風景(8歳・バンコク)

 

「学生時代の私にとってのピアノとは、私自身を慰める……私が自分でありづづけるために必要なものだったんです」

 

Q:クラシック音楽を弾き込むことよりも、作曲をしたり、耳コピーを楽しんだりするほうが好きだったということですが、ちなみに当時の歌謡曲やポップスなどに興味はなかったのですか。逆に音楽教室やご両親から、そういう音楽の影響を受けるのはよくないなどと言われたりはしませんでしたか。

「そういう制約は全くなく、むしろいろんなジャンルの音楽に触れることを勧められていました。だから小学生のころからキャンディーズをはじめヒット歌謡は一通り聴いていました。なにせ私は『音で遊ぶ』のが好きだったから、特にピンクレディーの楽曲のイントロはどれも衝撃的でしたね!中学生・高校生のころは主にブリティッシュロック・ポップス系が好きで、当時流行っていたアーティストの名前をあげれば、デヴィッド・ボウイやデュラン・デュラン、スティングなどを聴いていました。ライブ会場にも何度も足をはこびましたよ」

Q:お話をうかがっていると、西村さんは小さな頃から、頭に描く様々なイメージを音にする作業を、意識的にも無意識的にも、重点をおかれてされていたようですね。しかし通常のピアノレッスンでは、まず技術的な部分ありきで、その次に表現の世界へ入り込んでいくようなイメージがあるのですが?そのことについてどう思われますか。

「そうなんですよね。そういう面では楽しみながらピアノと会話ができるような指導をし、導いてくれた先生に感謝しています。もちろんどちらが良いとか悪いではなく、自分がどういう方向に進みたいかにもよるんですけど……。私の場合、とても手が小さかったため、ピアニストには向かないと思っていたし、自分の中ではっきりわかっていたのは、ピアニストになりたくてピアノを弾いているのではなく、表現の手段としてピアノを弾いていたということです。もしピアニストになりたかったのなら、もっとアカデミックな道を選んでいたでしょうね。でも今思うと、私が楽しみながらやっていた、頭の中のイメージを音に変え、曲に仕上げていくという作業は、とても貴重な体験であり、あの時期がなければ今の私はなかったと言っても過言ではありません。のちにドラマや映画の音楽を手がけたときも、当時の作業がとても役に立ちました」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

 

Q:技術を教える事は出来ても、表現力や想像力をのばすことができる教育者は少ないですよね。

「表現力やセンスって、横並びに点数をつけて評価できるものではないですよね。基準もないし正解もないので、指導する側も、技術的なことを教えるより、むしろ難しいと思います。でも、どんな音楽家も、最終的には表現力やセンスが必要になってくる。そこから、その人にしか表現できない個性が生まれるわけです」

Q:さて高校3年生になると、就職か進学かと、進路のことで悩みますが、音楽を職業にしようとは考えなかったのですか。

「小・中・高校と私は音楽を職業にすることなんてまったく考えていませんでした。とにかく学生時代の私にとってのピアノと、自分が自分でありづづけるために必要なものであって、ピアノでお金をもらおうなんて考えたこともありませんでした」

 

「デビューアルバム『Angelique』の収録曲はすべて高校2年生までに作曲した楽曲が元になっています」

 

Q:大学は大阪から東京に移り、桐朋学園大学のピアノ科に進まれますが、このあたりからプロを意識しはじめたということでしょうか。

「特に意識していたわけではありませんが……。『レコードを出しませんか?』とお誘いを受け、純粋に『自分が作った楽曲がレコードになるなんて素敵だな』ということからやってみようと思いました。それをきっかけに、音楽を本格的に学ぶため、東京の音楽大学を選んだんです。東京に行っていろいろと試してから、ゆっくり答えをだそうと思っていました」

Q:レコーディングの話が来たときの気持ちは?

「毎日のように日記としての作曲を繰り返していた私にとって、自分の楽曲がレコードになるなんて、信じられないほど嬉しいことでした」

Q:インストゥルメンタルのオリジナル楽曲で高校2年生の時にアルバムの話がくるのはやはり特別ですよね。

「本当ですね。当時は、作曲をメインとし、高校生でありながらオリジナル曲を数多く持っていたというのが、珍い存在だったのかったのかもしれません。それにしても、日記のように作っていた曲のメロディを、印象的でおもしろいと言ってくださるスタッフがいたことは、とても恵まれていたと思います」

Q:1986年、大学に入学されると同時にデビューアルバム『Angelique』を発表されましたね。

「発表は1986年の大学入学後なのですが、レコーディングは発表前年の高校3年生の夏休みにおこないました。確かジャケット撮影は同年の冬休みだったと記憶しています。冬から入試、そして入学までの間はレコード会社の人と全国各地をまわってアルバムのキャンペーンでとても忙しかったのを記憶しています。そして大学入学直後にデビューアルバムとして『Angelique』が発表されました。楽曲は全て私が高校2年生までにつくったものです。私としてはこれからの進路を決めるために大学に通いながら試行錯誤するつもりだったのですが、気がつけば大学入学前から大忙しになっていました」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

 

Q:デビューアルバム発表後も、ハイペースでアルバムを発表されていますよね。

「はい。1989年の大学卒業までに計6枚ものアルバムをリリースしました。バブル景気が後押ししてのこととは思いますが、とにかく、どんどん作りましょうっていう感じで……。だから夏休みも冬休みもずっとレコーディングでしたよ。もう『ゆっくり答えをだす』なんて何処かに消えてしまい、ただただ忙しい毎日をおくっていました。そんな中、唯一助かったのは日記感覚で書きためておいたオリジナル曲が膨大にあったことです。ストックはたくさんあったので、曲作りの段階で悩むことはなく、レコーディングに集中できました」

Q:オリジナル楽曲はどのようにストックしているのですか。

「子どものころから全く変わらず、頭に浮かんだメロディを五線譜に書き留めています。ちなみに私の場合、『さあ今から曲をつくろう!』と改めてピアノに向かい作曲することはなく、あらゆる場所で音楽が湧いて出てくるので、常に五線譜ノートを持ち歩いています」

 

 テレビやラジオの番組でまったく言葉が詰まってしまい、半ば放送事故のような状態を引き起こしてしまったことも……。

 

Q:先ほどキャンペーンの話がでてきましたが、対人恐怖症の西村さんにとって毎日入れ替わりで不特定多数の人たちと関わらなければならないというのは、かなり苦痛なことでは?

「デビュー当時の私は大きな思い違いをしていたのです。『レコードをだしませんか』と言われて、自分なりに思いついたのは、レコーディングとコンサートの映像でした。その両方に関してはちゃんとシュミレーションもしたし、海外演奏旅行や定期演奏会での経験から、とにかくピアノの前に座りさえすればなんとかなると思っていました。しかし、レコードを出すからには、キャンペーンというのがつきものであるということには、まったくといっていいほど頭がまわりませんでした。もちろん大学生になったからといって根っからの対人恐怖症がそう簡単に治るわけはありません……。テレビやラジオの番組で言葉が詰まってしまい、半ば放送事故のような状態を引き起こしてしまったこともあります。さらに写真撮影もインタビューも苦手で……。いつもガチガチだったから、まわりの人達が苛立っていたり、こまっていたりしているのを常に感じていました。そんなことから大きなストレスにさらされ『私は大変な世界と関わってしまった』と毎晩のように泣いていたのを覚えています。きっと当時は私だけでなく、レコード会社の方やマネージャーさんも、方々に頭を下げてまわらなくてはならず、大変な思いをされたことと思います」

Q:結果的に大学卒業後は、本格的にプロとしての道を歩む決意を固めることはできましたか。

「なかなかできませんでした。何もわからないまま業界に飛び込み、見るもの、聞くもの全てが初めてだったので、自分の方向性を決める手だてがなかったのです」

Q:それでどうされたのですか。

「このままでは自分を見失ってしまうと思い、卒業後すぐにオーストリアのザルツブルクに渡り、地元の音楽大学の夏期講習を受けることにしたんです。ひとつは、しばらくの間音楽業界から離れ、自分という人間の根っこであるピアノとゆっくりと向き合いたいと感じていましたし、音楽の聖地オーストリアで自分の実力を客観的に判断しようとも思ったからです。そのザルツブルグの夏期講習には、プロ・アマ問わず世界中からやってきた音楽家たちをきちんと評価してくれる機関あり、レッスンも受けさせてくれんです。まるで音楽懺悔とでもいわんばかりに、世界中の音楽家が自分の心のうちを楽器の演奏を通じさらけ出し、それを幅広いな角度から評価してもらうのです。しばらくそこにいて、様々な事情をかかえた人々の生々しい演奏を聴いていると、自分がささいなことにとらわれすぎて、うまく動けなくなっているだけなのだということに気づかされました。この時はじめて心の底から『音楽ってもっと自由でいいんだ』って思うことができ、日本に帰ったらあらたな気持ちで音楽と向き合おうと思えるようになれたんです」

Q:オーストリアから帰国後、あの有名なテレビドラマ『101回目のプロポーズ』(フジテレビ)で音楽を担当されましたが、そのきっかけを教えてください。

「ドラマの全編にわたりクラシック音楽が使われていることから、クラシックが弾けて、尚かつ『劇伴』(映画、ドラマ、演劇などで流れる音楽の演奏)ができるピアニストが必要だったらしく、たまたまプロデューサーの方からお声かけしていただき取り組むことになったんです。ちょうどその頃、『101回目のプロポーズ』よりも一足先に、鈴木保奈美さん、織田裕二さんが主演されているテレビドラマ『東京ラブストーリー』(フジテレビ)が放映されていて、テレビをみながら『音楽の使われ方が素敵だな。私もドラマ音楽に挑戦してみたいな』なんて考えていたので、お話をいただいたときはとても嬉しかったです」

Q:主題歌の『SAY YES』を含め、『101回目のプロポーズ』イコール『ピアノ』というイメージが強い作品だと思いますが、具体的に西村さんはどのように関わったのですか。

「内容的には主題歌であるCHAGE&ASKAさんの『SAY YES』意外は全て私が手がけました。劇中で流れる音楽として、確か40曲ぐらい作曲しました。ちなみに浅野温子さんが涙を流すシーンで必ず使われる、ショパンの『別れの曲』も、恋人を思い出す時に流れる音楽は何がいいかをプロデューサーさんと話し合って、いくつかの候補の中から決めたんですよ」

Q:あのドラマ以降、日本全国様々な場面で『別れの曲』が使われることが多くなりましたよね。

「『101回目のプロポーズ』のおかげで、普段クラシックを聞かない方にも『別れの曲』のメロディが広まりました。その意味でも、テレ ビドラマの影響力って大きいですよね。とにかく、プロデューサーさんやスタッフの方々が、音楽をとても大切に考えてくださったドラマでした」

Q:ドラマの音楽も、子どもの頃に、絵本に音入れしていたように簡単にいきましたか。

「いえいえ、最初は大変でした。『101回目のプロポーズ』の台本を初めて読んだときに、主演の武田鉄矢 さんと浅野温子さんのラブロマンスのイメージがどうしても湧かなくて(笑)。お芝居の雰囲気を体感したいと思い、初日の撮影現場に立ち会わせてもらいました。すると、現場で次々とメロディが生まれたんです」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

 

 スタッフ達と喧嘩をしてまで作った10周年記念アルバム『Virgin』発表により、自信がもてるようになった。

 

Q:さて、西村さんはこれまでに30枚を超えるアルバムを発表していますが、特に印象に残っているアルバムを教えてくれませんか。

「そうですね、デビュー10周年の時に発表した全曲ピアノソロのアルバム『Virgin』ですね。私にとって転機となったアルバムでもあり、ある意味、自分自身への挑戦的作品でもあるんです。この『Virgin』までに16枚のアルバムを発表し、テレビドラマの音楽なども経験させていただいたのですが、実は全曲ピアノソロという作品はなかったのです。ピアノのメロディを使って、クラシカルなジャンルから当時流行っていたフュージョン系のサウンドまで、いろいろ挑戦できるのは楽しかったのですが、だんだん自分の本当の姿が見えなくなっている気がしたのです。ある時、雑誌のインタビューで『西村さんは、アルバムによって変幻自在ですが、どれが本当の西村さんなのですか?』と言われ、ハッとしたのもきっかけでした。この機会に思い切って原点に戻り、ピアノソロのアルバムに挑戦してみようと思ったんです」

Q:どちらかといえば、10周年記念アルバムなどは、もっと賑やかでお祭り的な印象が一般的にあるのですが……。

「確かにそうですね。スタッフは、デビュー10周年をこれまでの西村由紀江の集大成的アルバムにしようと、有名なアレンジャーやプレイヤーの方々 にお声かけしてくださっていましたし、それに付随するツアーの計画も立ててくれていたのに、私の我がままがそれを全て覆してしまったんです。そこまで無理を言ったので、レコーディングでは、もちろんプレッシャーも感じました。私にとってピアノソロだけで完結するアルバムって、歌手の方が全曲アカペラでアルバムを作るようなものです。歌手の方の息づかいが伝わるように、ピアノにも息づかいのようなものがあるんです。ある意味怖いし勇気もいるけれど、どうしても10年という節目でやっておかなければ、プロとして次のステップに進めないような気がしたのです」

Q:こだわりのアルバム『Virgin』を発表されてから、ご自身になにか変化はありましたか。

「一言でいえば『ふっきれた』という感じですね。それまでは、何をするにも周りの人の意見を聞きながらバランスをとろうとしていたので、その分、発信される音楽もバランスよく、点数的には合格点だったかもしれませんが、純粋に私の体の中で鳴り響いている音楽とは少しずつ形 が変わっていたのです。このままでは音楽家としてどうなのだろう?表現者としてどうだろう?と疑問を持つようになりました。しかし、スタッフに初めて自分の意志をハッキリ伝えた『Virgin』を発表できたことで、私の中で何かが 切り替わりました。良い意味で『私は私なんだから』と開き直れるようになったのです。そのおかげで、ステージでのMC(トーク)も、よそ行きではなく自分の言葉で話せるようになり、お客様との距離も縮まりました。なにより、ライブを心から楽しめるようになったのです」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲学校コンサート風景

 

 投稿拒否の女の子に勇気を与えた「学校コンサート」。

 

Q:節目となった10周年後、西村さんはライブ活動にも力を入れるようになったとおっしゃいましたが、ライフワークとして『学校コンサート』や『病院コンサート』なども勢力的に行われていますよね。詳しく教えていただけますか?

「はい。『学校コンサート』や『病院コンサー ト』は、例えば交通や身体的な事情があってライブ会場などに足を運べない方や、生演奏に触れることの少ない生徒さんや子供たちにも音楽の楽しさや素晴らしさを感じてもらえたらと思い、全国各地に足を運び演奏を行っています」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲学校コンサートでの昼食風景

 

Q:印象に残っているエピソードなどお聞かせください。

「ある学校でのコンサートで、登校拒否の女の子が私の演奏を聴いてくれたんです。私がコンサートの中で、自分が対人恐怖 症であったことを話し、寂しい気持ちで作った曲を演奏したりしたんです。演奏後、 その女の子が私に会いに来て言いました。「西村さん、人見知りだったって本当ですか?」私は答えました。「本当よ。全然話せなかったのよ」それからしばらくして、彼女から手紙が届きました。開いてみると、淡いパステル調の色鉛筆で『西村さんに出会って、勇気をもらいました。あれから少しずつ学校に通い、無事卒業できました』と書かれていたのです。 音楽を続けていて本当によかったと思える瞬間でした。ちなみに彼女とは今でも年賀状のやりとりをしているのです が、年々彼女の文字が力強くなり、今では私の似顔絵まで描かれているんですよ。毎年彼女からの年賀状を楽しみにしています」

Q:どうやったら学校や病院で演奏してもらえるのですか?

「出演依頼は学校の先生やご父兄だったり、病院の関係者やご入院されている患者さんだったり、様々な形でいただきます。スケジュールやお互いの条件などをお話しして、相談しながら実現していきます。本当にお気軽に、事務所にお問い合わせして下さっていいんですよ」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲病院コンサート風景

 

「私を救ってくれた音楽そのもにも、いつか恩返しがしたいと常に考えています」

 

Q:さてここからは最近の話題になりますが、デビュー20周年にあたる2006年には事務所『株式会社モデラート』を立ち上げ独立し、翌2007年には、それまでのご自身を振り返るエッセイ『あなたが輝くとき』(成美堂出版)を発表されましたが、10周年時のような心境の変化などがあったのですか。

「独立に関しては特に深い理由があった訳ではないんです。デビュー20年目をきっかけに、20年間所属をしていた事務所と話し合う中で出た結論でした。年を重ねるごとに、だんだん怖いものがなくなってきたというか(笑)、自分のペースで仕事をするのもいいかな?と思い、独立に至りました。エッセイに関してはまったく初の試みでした。『デビュー20周年という節目に、本を出してみませんか?』と、以前からお付き合いのあった出版社の方からお話をいただいたのがきっかけです。せっかくなら、ピアニストとしてだけではなく、一人の女性として自分をストレートに表現しようと思いました。だからかなりプライベートな事にもふれていて、内容は濃いですよ(笑)。嬉しかったのは、音楽に携わっている方だけでなく、主婦の方や学生さんが、本を読んで元気がでたとか、もう一度頑張ろうと思ったという感想をくださったことです。これからも、みな さんに音楽を通じて私を知ってもらい、私という人間に触れていただき、共感してもらうことで、元気や勇気をお届けできればと思っています」

Q:近年ではヴァイオリニストの葉加瀬太郎さんプロデュースによる夏の音楽イベント『情熱大陸スペシャルライブ』にもご出演されていますが、葉加瀬太郎さんは、最新アルバム『ビタミン』にも参加されていますよね。

「葉加瀬さんには、いろいろお世話になっています。私の最新アルバム『ビタミン』は『HATS(ハッツ)レーベル』移籍第一弾 アルバムですが、『HATS』は葉加瀬さんプロデュースのレーベルなんですよ。アルバムの1曲目『ビタミン』にもヴァイオリンで参加してくださっています。またライブにもよく声をかけてもらっていて、『情熱大陸スペシャルライブ』にも3回ほど参加させていただいています。イベントには様々なジャンルの素晴らしいアーティスト 達がたくさんあつまるので、いい刺激になるし、個人的にも楽しみなイベントです」

作曲家・ピアニスト 西村由紀江

▲最新アルバム『ビタミン』のポスター

 

 Q:リリースされたばかりの最新アルバム『ビタミン』について詳しく教えてください。

「独立してから感じたのは、いろんな方々のご協力があってこそ、こうして立っていられ るということです。様々な場面でいただいた励ましの言葉や優しいメッセージなどがとても有り難く、それが私の心の栄養となり、どんな時も頑張ることができました。みなさんにどうやってお返しできるかを考えていたら、どんどんメロディが生まれました。この感謝の気持ちを届けたくて『ビタミン』というタイトルにしました。今回のアルバムのライナーには、こんなシチュエーションの時に聴いてもらいたいなど、私の思いを文章でも書いています。ぜひ、文章を読みながら音楽を聴いてみてくださいね。現代は女性も男性も様々なストレスを抱えていると思います。この『ビタミン』を聴いていただくことで、少しでも気分がスッキリし、明日への活力を感じてもらえたらと思います。1月からは『ビタミンツアー』も行われます。たくさんの方に来て頂けたら嬉しいですね」

Q:それでは最後に今後のヴィジョンなどをお聞かせください。

「自分でライブイベントなどを企画してみたいですね。例えば恵まれない国の学校などに届けることができたらと思っています。私はピアニストだから、ピアニカなんかどうかなって!ピアニカだったら、自分の息さえあればどんなとこ ろでも音が出せるし、あの音色が心和むでしょう?特に戦争や貧困などで心を痛めているような地域の子ども達に手渡したいんです。何故なら私自身、子どものころに何度も音楽に救われたからです。次世代の子ども達に夢 や希望をもってもらいたいと共に、私を救ってくれた音楽そのものにも、恩返しがしたいと考えています」

 

 西村由紀江new album 『ビタミン』

2009.10.28 発売!

 西村由紀江new album 『ビタミン』

■受注限定生産盤(CD+DVD)
 HUCD-10062/B /¥3,500(税込)

■通常盤(CD) /HUCD-10063 /¥3,150(税込)
 ※オリジナル着ボイスアクセスコード封入(通常盤初回プレス分のみ)

01.ビタミン
02.優しい風
03.あの日のこと(「BS日本・こころの歌」エンディング曲)
04.しあわせの花(「全労済」CM曲)
05.砂漠と光
06.フロンティア
07.水の舞曲(コニシセイコー「b:mist」CM曲)
08.生きること(テレビ朝日スペシャルドラマ「肉体の門」テーマ曲)
09.予感
10.届けたい
11.おやすみ


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